一過性全健忘について

2020年2月18日号
土浦市医師会 井上千秋(土浦協同病院附属真鍋診療所)

 一過性全健忘とは一時的に記憶障害が起こる病気で、50〜70歳代の女性に多く、新たに記憶が構築されないこと(前向性)と、過去の出来事を想起出来ないこと(逆行性)を特徴とします。ただし、主な症状は前者で、後者は軽度です。症状は数時間~数日の内に自然に回復します。頭部MRIでは発症直後に異常は検出されず、数日後に片方または両側の海馬に異常が見つかる例があります。原因は不明です。1950年代になって報告例が出ました。
 経験例を挙げます。車を運転中に急に発症し、運転法は憶えているが、なぜ車を運転しているのか分からない。道順は憶えていて家に帰れるが、なぜ車の中にいるのか分からない。 様子が変なので家族が病院に連れて行っても、本人はなぜ連れて来られたのか分からない。今の状況を理解できず不安になる。回復しても、この間の出来事は憶えていない。これは、 記憶を新しく積み上げられないと現状を認識出来なくなることを示しています。
 アウグスティヌスは『三位一体論』で述べています。認識(知解・思考)は、記憶に戻り、そこで以前に知覚したものが無ければ機能しない(同第11巻8章)。記憶と知解とは一つで、時間的に一方が他方に先行することはない(同第10巻12章)。両者には強い同一性があり、「思考の限界は(想起される過去の)記憶に拠って生じる」と。そして、記憶と認識とその両者を結合させる意志とは、三つで一つの精神・実体である(同第11巻8章)。また、記憶は過去だけに関連しているのでは無く、自己を想起する場合には現在的であり得る(同14巻第11章)、と。彼の時代には未知であった前向性健忘は、現在的記憶の障害に相当し、「思考の限界は(構築される現在の)記憶に拠って生じる」とも言えます。
 原因不明とはいえ、情動もしくは身体的ストレス下の発症例が多く、現代的な疾患なのでしょう。